• 「猫の手貸します」

事業仕分けへの様々な見解が聞かれる。
支持率が激減している民主党政権への評価で、
唯一といってもいい評価項目が「事業仕分け」である。
こうして世論はおおむね好意的だし、
メディアの論調でも、
「さらに進化して実施を」といった論調が目立っている。
国の借金が900兆を超え、
財政が逼迫し先の持続性が不透明な時代の空気の中、
事業仕分けは時代が送り出した道具だといっていい。
私の所属している会派でも11月2日に、
仕分け作業を実施をしたことは、
すでに当ブログに記載したとおりだ。
この仕分け作業をめぐっては、
自民党、そして無所属議員が紹介した請願書が提出され、
議会内で審議が続けられていた。
11月25日、本会議。
「職員が関与するべきではない」
という趣旨の請願が本会議場で賛成多数で採択となる、
残念な結果となった。
他の自治体ではここまでの事例はないだろうから、
さいたま市議会が未だ古い体質を残していることが、
この事例で示されてしまったのではないか。
理由はいろいろと挙げられているが、
どれをとっても、全く当たらないものだ。
法的にも全く問題がない。
もし選挙向けのパフォーマンスだ、
というならば、
ぜひ同様の試みをしてはどうだろうか。
現時点で、私が想像するに、
その勇気ある行動ができる勢力は存在しないだろう。
仕分けの実施が選挙において有利に働く、
と考えるのはあまりに短絡的だ。
選挙のパフォーマンスになるどころか、
有権者の厳しい視線に
さらされるケースもあることを認識すべきだろう。
仕分けにつきものの「廃止」「削る」という話は、
必ずしも市民に評価されるものではない。
これを公開の場で、
マスコミ報道各社や約150人の来場者の見守る下、
実施したものである。
対象の事業の利害関係者からは厳しい声が届けられ、
時には、選挙でマイナスに作用することもあろう。
思い起こせば、国の仕分けにおいて、
文化振興や科学研究の費用をめぐり、
業界の関係者を上げての反対の声が上がった。
これは国だけではなく、
自治体レベルも同じ構造である。
いや、住民に身近な分、
より直接的でさえある。
説明員として協力いただいた職員の方々からも、
違和感をもたれている向きもあることだろう。
実際に職員の方からも、
「なぜ与党なのにそんなことをするのか」
とそれを裏付ける言葉が届いている。
私たちの会派での仕分け作業は、
こうしたことを覚悟の上で実施したものだ。
なぜそこまでして実施するのか。
今の時代、議員としてどう責任を果たすか、
これを熟考した結果である。
財源不足が常態化した中、
右肩上がりの社会保障費などの支出増に対し、
いかに内なる財源を生み出すか。
短絡的に、
負担増を市民個人に強いるわけには行かない。
できる限り回避しなければならない。
いかに、これまでの支出先を見直し、
使用先を付け替えて、
すべきことに集中していくか。
これは個々の議員の責任にも帰する話だ。
もし仕分け作業を否定するなら、
それも一つだ。
ただ、少なくともこうした現状認識を踏まえて、
自らのやり方で、
議会がその役割を果たすことができるよう、
行動すべきだろう。
それもせずに「増やせ増やせ」
の言葉だけ勇ましく発するだけで、
今までのやり方をよしとするのでは、
到底、未曾有の財政危機に責任を負っているとは言えまい。
私たちの仕分け作業を否定する説得力がない。
結局、いわば古い時代の担い手だということとなる。
これは、批判勢力としての地位に甘んじて、
「創る」ことや「担う」ことから逃避する
議員もまた同様である。
議会全体における責任の問題であり、
個人的な言動に終始し、
議会全体の動向を視野に入れない行為もまた、
議会改革の流れに壁を作ろうとすることに他ならない。
昨年12月、さいたま市議会。
議会基本条例が成立。
今、その理念に従い、
我が議会の監視機能を強化しようとする矢先である。
仕分けは、時代が求めているものであり、
今後も、さいたま市を含めた
各地で次々に行なわれていくだろう。
納税者は、自分の納めた税金が、
有効に使用されているかどうか、
知りたいのである。
内なる財源の発掘への要請は、
不安定な財政運営の中で、
ますます高まるし、
その際の議員各位の言動は、
常に注目され、問われていく。
納税者の想いに応えられない議会は、
議会そのものが、
スクラップ論の対象とされていくのだろう。
阿久根市や名古屋市の事例を、
対岸の火事としてはならない。
さいたま市全体の将来にわたる責任を果たす一環で、
覚悟を決めて仕分け作業を実施をしたのである。
この立場に責任を負う者として、
時間軸を過去の古い政治に引き戻すような動向に対し、
今後とも毅然とした態度を取り続けていくことをここに断言したい。