• 「猫の手貸します」

義理の祖母が亡くなった。
享年85歳だが、妻の育ての親であり、
実にさびしい限りだ。
認知症も出ていたし、
段階を追って悪くなっていったが、
最後は、過度な治療での負担をかけない、
という妻やその父親の意向から、
電気ショックなどの方法はとらなかった。
その結果だろうか、
殆ど苦痛にゆがんだ顔も見せず、
家族に見守られて、
最後は安らかな顔で天寿を全うした、
そんな印象であった。
さて、その臨終の場に立ち会ったのである。
荘厳で、尊いものだった。
人の死の瞬間に直面するのは初めての経験だった。
死は必ず誰にでも来る。
何よりもこうした場で、
命の大切さを学ぶことができる。
私は「危篤」の一報を知って、
死の2時間ほど前にベッドサイドに駆けつけた。
最初は義理の父のみだったが、
次々に父の兄弟や孫、
つまり私の妻やその妹が到着した。
人工呼吸器により、
開けられた喉から肺に酸素が送られる。
その音が定期的に耳に届くほか、
時折、脈拍の機械の警報が鳴る。
緑のランプは脈拍。
この点滅が不規則となると、
つまり不整脈を感知すると、
赤やオレンジ色のライトの点灯とともに、
たちまち大きな音が鳴る。
看護師がその都度来る。
が、祖母の状況をみるまでもなく、
スイッチを切っていく。
臨終の場では、
警報にも、それほど驚くことでもないのか、
冷静な顔が印象に残る。
看護師も冷静な対応を求められる
大変な仕事だと改めて思った。
臨終の30分ほど前からだろうか。
祖母が目を開ける。
が、意識はない。
しかし、口を開けて何か話しているようにも見える。
そして徐々に、
寝たきりの祖母のその動きや動作から、
その瞬間が近づいていることが分かる。
そして。
その瞬間が来た。
スッと顔から血の気が引き、
唇が肌の色と同じになる。
そして静かになった。
人工呼吸器だけが、
ただただ鳴り続けていた。
遺族は察していたが、
医師が確認するまでは、
目に涙を浮かべつつも、
じっと冷静にしていた。
医師が来る。
ペンライトで瞳孔を検査。
その後。
「残念ですが…」
という一言があった。
その瞬間の遺族の様子は、
言葉にはならない。
よほど故人を大切にしてきたのだろうし、
故人に大切にされてきたのだろう。
私もまた、
まだ温かいおでこに手を当て、
一言声をかけた。
「お疲れ様でした」
人生は一度きりだ。
自分にもいつかこうした場面が来る。
故人の85年に想いを馳せるとともに、
心をふるわせながら、深くこだわりながら、
これからも生きていきたいものだと反芻した。
最後に。
故人を見送った妹のお腹。
ここには新しい生命が、
もうすぐの誕生を控えていた。
命の輪廻とでも言うのだろうか。
その生命の神秘のようなものが
私の目頭を熱くさせたのだった。