• 「猫の手貸します」

【中盤】8月9日~11日 遠征
■8月9日
午前、バスでミュンヘンから移動し、マインブルグへ。この都市は、ホップ生産で世界的に有名な都市だ。各国のビール会社が競ってこの地のホップを求めるという。日本ではアサヒビールが、ここのホップを使用している。1時間後、市庁舎に到着。玄関前には10名以上の市政関係者が出迎えていた。これが示すよう、マインブルグ市政関係者には、滞在中、暖かいもてなしを受けた。市庁舎は、まず、この都市に関することについて、市長はじめ関係者に質問。就任したばかりの市長は、次々に飛び出す私たちの質問に対し、終始落ち着いて的確に答えていた。ここは茨城県守谷市との交流を持つ。午後、植物園、老人ホーム、ホップ農園をそれぞれ見学。老人ホームは、宗教団体が経営し、その建屋をマインブルク市行政の保育園として貸している。教会の力がいまだ健在であり、社会的な貢献をしていることは、特筆すべき点だった。その日はマインブルクに宿泊。暖かい人々。美しい光景。余計なものはなく、虚飾を排した生活と豊かな自然。洗練された生活、実直な人柄。この土地が生み出した人々との交流の時間は、自らの生き方をも再考する、かけがえのない時間だった。
■8月10日
午前、マインブルグ市政関係者に見送られながら、バスにて移動。まず、最初の訪問都市、レーゲンスブルグ。大聖堂ドムを見学。その荘厳で歴史を積み重ねてきた風体に圧倒される。さらにバスに乗り込み、流量豊かなドナウ川を遠くに見ながら、ニュルンベルクへ。ここは、戦争にかかわりの深い都市である。まずはナチスが党大会会場として、大演説を行なった会場、ドク・ツエントルムへ。短時間であったが、その大きさと深い歴史を肌で実感。次に、ニュルンベルク裁判が行なわれた裁判所へ。歴史法廷の部屋に案内され、実際に行なわれた裁判に思いを馳せる。現在も裁判で使用されている。移動のバス内で参加者による議論。議題は「戦勝国が敗戦国を、果たして裁くことができるのか」。戦勝の連合国側は、自国民の強い思いを交通整理し、次の時代に向かって国際秩序を安定させるため、裁判という方法をとらざるを得なかったのではないか。この裁判とともに日本が裁かれた極東軍事裁判も、である。多分に政治的な内容を含んでおり、「戦勝国に敗戦国を裁く資格があるのか」と、正統性を疑問視する向きもあるが、戦争を終わらせる際に通らねばならないトンネルのようなものだったと思われる。他の方法もあったのだろうか。なかなか思いつかない。極めて政治的な裁判であり、複雑な思いはある。しかし、戦後の秩序安定には寄与したのだろう。ニュルンベルクでは、職人広場、中央広場にも立ち寄る。独特の景観と空気に圧倒され心は躍る。親の話では、私はここに2歳の時に、滞在した事があるそうだ。短い「帰郷」であった。夕方、ローテンブルグヘ。一言で言うと、コンパクトで統一感があり、ディズニーランドを思わせる街並み。サマーバケイションのためか、観光客が多く、どこもにぎわっていた。歩く楽しみを実感させてくれる都市だ。
■8月11日
朝の出発時。市庁舎前のメイン広場。驚くことにぞろぞろと日本人の群れ。私たちだけではなく、複数組の日本人ツアー客が集まっていた。朝のこの時間帯だけをとれば、広場における人口比率は日本人約90%であった。ローテンブルグを後にし、バスにて、いわゆる「ロマンチック街道」を南下。この街道、「ローマへの道」という言葉を踏まえ、ある有名な詩人がロマンチックな情景を見たことから名づけられたらしい。確かに広大に広がるトウモロコシなどの畑や、時折集中して見えてくる住宅群。こうした光景は、鈍感な私でも目を奪われる。ちなみにトウモロコシは、牛の飼料として使用されるという。ソーセージやステーキなどの、国民食を支えている重要な原料なのである。デュンケンスビュールへ。統一感のある街並みだが、ローテンブルクと異なり、住宅街でひっそりとしている様子。教会周辺の商店街は人手が多く、住宅街とは対照的であった。次に円形の都市、ネルトリンゲンへ。直径25キロの盆地は、隕石の落下によりできたと解明された。その中に位置するネルトリンゲンもまた、中央の教会を中心に楕円形の城壁に囲まれた都市。隕石博物館、教会の展望台、駅を訪問。奥が深い街で、ここも短時間ではとても回り切れず、次回への課題を与えられたような気分でこの都市を後にした。午後、アウグスブルグへ。「フッゲライ」という世界最古の社会福祉住宅の見学から。豪商フッガー家が創ったもので、今でも住宅として利用されている。部屋内部を見学もできるようになっている。その後、ドムやそこに隣接する博物館に立ち寄る。ドイツの教会はどこに入っても荘厳であり、ながら静かな印象。より一層の威厳を感じる。夕方、無事にミュンヘンに戻る。