• 「猫の手貸します」

とある日の夜中にテレビを見ていると。
以下のような言葉を聞いた。
話をしていたのは、著名な女性(学者?)のようだ。
  人間の数パーセントは生まれながらに障害を負う。
  これは遺伝子の変異がもたらすもの。
  つまり障害は人類の中にプログラムされているものだ。
  障害者は、誰もが可能性として持っている
  遺伝子の変異を我々に代わって
  引き受けてくれたということ。
  だからこそ社会は障害者への支援をしなければならない。
話している人の名前も失念するなど
記憶があいまいだが、
趣旨はこのような内容であった。
では、今、障害者の置かれた現状はどうか。
もちろん、これまでの歴史的経緯で、
障害者支援に関する行政の取り組みは
質も量も飛躍的に上がってきた。
しかし、先送りされた数々の課題も残されている。
重度障害者通所施設。いわゆるデイサービス。
重度障害者のいる家に、
朝、送迎バスで迎えが来て、
日中は施設で過ごし、
夕方、自宅に戻る。
ここには、自ら生活することが
困難な人たちが集まっている。
近所の民間施設に行くと。
ベッドに横たわる人たち。利用者に寄り添う職員。
食事のときなどは賑やかである。
無言で横たわっている人に職員の人が声をかける。
声はなくとも些細な動きでの反応があるという。
胃瘻(いろう)の人。
口から食事を摂ることが困難な人は、
チューブで水分や栄養分を流入させる処置を受けている。
痰の吸引を受ける人。
痰を自力で外に排出できない人たちがいる。
気管に詰まるのは、気管をふさぐことと同義であり、
呼吸ができない、つまり命にかかわることとなる。
こうして利用者は、それぞれの状態に合わせ、
職員のケアを受け、それぞれの時間を施設で過ごしている。
職員の献身的な姿勢に頭が下がる思いだ。
この施設を利用している人たちは「社会人」である。
義務教育課程のうちは「特別支援学校」があり、
そこが重度の障害者を受け入れる施設となる。
その利用者が18歳になり、
社会に出る段階になった時。
この受け入れ先が、
一つの課題である。
まず就職は困難である。
日中、誰かに常に寄り添ってもらい
ケアを受ける必要がある。
家族が付きっきりでケアをする、
というスタイルは、
その家族に犠牲を強いることとなる。
だから、こうした日中引き受ける施設が必要とされる。
実態は命にかかわるケアは敬遠されがちで、
受け入れる施設が限られているため、
引き受け手が特定の施設に集中する傾向がある。
しかし当の受け入れ施設は、
驚くほどギリギリの状況の中で
仕事を余儀なくされている現実がある。
特に医療的ケア。
重度の障害を負っている利用者のケアについては、
看護師でなければできない仕事がある。
しかし、運営費の面から、
正職員としての看護師を複数雇うことができない。
パートで募集するも、
看護師は一般の病院でさえ不足がちであり、
条件のいい仕事先が多方面にあるため、
なかなか来てもらえない。
つまり医療的ケアを必要とする利用者にとっては、
看護師不足のために、
命にかかわる事態が生じているということである。
これを放置していいはずがない。
そこで、行政に申し入れをする。
看護師の待遇を良くし、
正規職員として看護師を雇うために
予算をつけられないか、と。
しかし。答えは…
「国の基準は満たされている」
「財政的な面から難しい」
国の基準が満たされていることと、
実態の危機的状況からの回避は、
必ずしも噛み合うものではない。
国の基準は、財源の面から計算されている傾向もあり、
一つの根拠にすぎない。
大切なのは現実への対応だ。
予算付けの問題は、優先順位の問題でもある。
命にかかわるこうした課題にこそ、
税が投じられるべきではないか。
議会に席を置く私自身も、大きな責任を感じている。
私たちの社会はもっとこうした深刻な課題に目を向け、
積極的にならなければならない。
冒頭の言葉にもある通り、
誰もが障害者となる可能性を秘めているからこそ、である。
想像力を働かせたいものだ。
後ほど詳しく述べたいが、
精神障害者の置かれた環境や、
児童虐待を受けた子どもたちの問題、
物量が不足する時代が目の前に迫る介護の問題など、
まだまだ予算を増やすべき課題がたくさんある。
今後も愚直に取り組みを続けていきたい。
そして。
こうした様々な課題の中でも、
人の命にかかわるような、
選択し、集中して取り組むべき深刻な課題がある中、
だからこそ、行政の仕事を総チェックして見直し、
必要のなくなった仕事はスクラップをして、
新たな財源を内部から生み出す努力も欠かせない。
こうした理由で、私は当面、
「事業仕分け」という
行政改革の切り札といわれる手法の実施を
自らの行動の柱としていく。
いずれにしても課題はいまだ数多く残されている。