• 「猫の手貸します」

「低ストレス社会化構想」を打ち上げ、
断固として命の限りまで戦う!

などという目のつりあがった
「闘士」のような心境ではなく。

あくまで私見であり、
何の学術的根拠もない段階なのだが。

居ても立っても居られない気持ちであり。

もしかしたら専門的に
研究している方もいるかもしれず。

さらには新党さきがけの理論的支柱だった
田中秀征先生の提唱する
「質実国家」的なものも念頭に置いて。

「低ストレス社会化構想」というものを
以下、簡単に述べていきたい。

すごーく長いので、時間があって
興味のある方にお読みただきたい。

興味がある方、是非議論しましょう。

   ★   ★   ★

これは今後の社会の方向性に関する話である。どうも最近、世の空気が殺伐としているように肌で感じているのは、私だけだろうか。次の社会像がなかなか見えない。落ち着かず、不安が高まり、人の問題は徹底して追求する。追求されるほうに回ると、これはもう、一度の失敗で社会的に抹殺されかねない雰囲気。もちろん景気の動向などにより、こうした空気が醸成されるのもわかる。「議員なのにそんな呑気なことを言っていていいのか」といった批判を受けるかもしれない。ただ、ここで今一度冷静に考えたいのだ。

身近な課題を例に引くと、児童虐待の問題。親やその周辺の大人が子どもの命を奪う。この世で最も理不尽なことの一つだ。子どもの虐待死事件が発生すると決まって出る言葉は2種類。「児童相談所(行政)は怠慢である」「親の資格を失った親が子どもを生んでいる」。どちらも一理ある意見だろう。しかし、いくらそれを声高に主張してもこの問題の本質は変わらないし、虐待事件は減らないだろう。むしろ現場で深刻な事態に直面しているたちを追い詰めるだけである。

虐待の総合窓口である児童相談所。ここで働く児童福祉司たちは疲れ切っている。近年の通報件数の急増に加え、一件当たりの深刻さ複雑さが増している。この状況の改善の第一歩として、さいたま市では、国基準を大幅に上回る12人の増員することを行政内部で計画している。全国に先駆けた取り組みとして、市長の決断を高く評価している。が、しかし。これが実現しても、虐待問題はなかなか簡単には改善しないだろう。なぜか。それは「原因の除去」がなされていないからだ。つまり事が起きてからの対応する体制を整えるという話であり、その原因を取り除くところまでは、手が差し伸べられていないからだ。犯罪が多いから警察を増やす、という話と同様だ。結局、公的な職員を増やすには財源が必要であり、財源の調達可能な範囲での配置になることから、すべてに満遍なく対応することは不可能。これでは早晩、職員の数がまた深刻な不足となる恐れもある。虐待の起きる本質にまで焦点を当てていかなければならない。

では「親の資格がない親が増えている」という点に関してはどうか。確かにその通りなのだろう。親でもない私が言うのも気が引けるが、現在、児童養護施設や私が師範を務める道場などで、数々の様々な人たちに話を聞くほど、それは裏づけられる。親は必ず子ども時代があり、年齢的に成長して大人になる。その子ども時代から社会に出るまでの過程は、どのようなものだったのか。虐待事件の首謀者である親や大人の、その子ども時代の生き方に、今一度光を当てねばならないのだろう。そして、この時期に親の資格を何故得られなかったのかを分析する必要があるだろう。

蕨市でで起きた事件。容疑者の夫婦は、以前より生活保護を受けていた、と報道されている。貧困と虐待の相関が疑われる。「なぜ働かないのか」「もっとしっかりしろ」…ここでいくら精神論を説いたところで、事態は解決しない。物事はそんなに簡単ではない。今、この瞬間にも、虐待を受けていると思われる子どもたちは少なくないのだ。児童虐待の件は、別の機会に改めて述べたいが、ここで言いたいのは、この問題を起こす親が、ストレスを抱えていることが予想される。しかし、この問題を知ったメディアや世論が感情的な反応をしていることから、物事の本質に迫る余裕がなく、社会が真の解決に向かうことができていない。先ほども記したが、担当職員の増員は必要不可欠なことだが、対処療法でしかないということだ。

さて、そこで。少し大きな話になる。いま私たちの生きている社会を少し遠くに離れて傍観すると、一体どんな像を持っているのか。ヘリコプターで上空から見下ろすように私たちの暮らす社会を眺めると。どうも、「過ストレス社会」といえるのではないか、と感じるのである。この私たちが毎日空気を吸って吐いているこの社会。個々人のレベルでは大変なストレスを感じる社会となってしまっているのではないか。その歪みが顕著に表れているのが先ほどの児童虐待問題ではないだろうか。統計上、メンタルヘルスにかかる人が、急増している。公務員の中でも、その数は増えており、中には精神的に病んだ職員が職場を混乱させ、第2第3の病気を生み出し、職場が回らない事態も生じていると聞いている。23区の職員に聞けば、「精神的な疾患にかかりそうな傾向を持つ人はいる」としながらも、「職場でのコミュニケーションが以前のような密なものがなくなり、個々人の関係が希薄化している」その話を聞いている。

日本社会では、自殺者数は3万人を切ることがない。そして、最も多いのは倒産や多額の借金を抱えるなど経済的な激変で精神的に病んでしまい自殺に至るケースだ。具体的な原因動機としては、(1)自社の倒産・廃業(多くの事例で債務返済難)、(2)失業及び再就職難、(3)収入減少・他者の債務保証等、(4)仕事の量・質の変化(過大な責任、長時間残業)だそうだ。(『自殺の経済社会的要因に関する調査研究報告書』平成18年7月 内閣府経済社会総合研究所)。私も身近な人を自殺で送っているが精神的な病を持っていた。

少し話は変わるが、死因の主原因のガンや脳の病気について。これもストレスに関係あるといわれている。もちろん、長寿命化したから死の要因として浮上してきたことも否定はしない。ただ、その要因の一つにはストレスの多い社会での生活、というキーワードが当てはまるのではないかと思う。以前何かの本で読んだ話が印象的だ。人間はその昔「動物」であった。つまり進化して今の姿形になったわけだから、動物の時代の名残が体の中にある。ストレスとは「外からの刺激」のこと。野生の動物たちは、いつ襲われるかわからない。突然、肉食の猛獣が噛みついてくる。血が流れる。ここでその動物の身体はどう知恵を使ったか。血が流れてしまえば、自らの生命を維持できない。ならば、その命を長らえるために、ある特徴を持つようになった。それが血流の「ドロドロ化」である。猛獣が来ることを見越し、外敵を前にすると、それまで「さらさら」していた血流を「ドロドロ」して、もしもの時に備える体質が出来上がったという。これを今の私たち人間の体も引き継いでいる。つまり外的な刺激に対し、血液はドロドロ化する。そのドロドロ化が、過度に、不規則に、継続して起きると、どうなるか。これがストレスの引き起こす病気の真相だ。血液は体内の輸送路である。栄養分を隅々まで運び、不要物を運んで肺や排便などにより外に排出する。その輸送路が渋滞するような状態が続けば、毒物が体に悪く作用し、本来エネルギー源となる栄養分が届かない。その部分は劣化し、やがては崩壊していく…この話は、医学的な見地からの話かどうか忘れたが、自らの実感でいくと、道場で汗を流した次の日と、そうでない日は明らかに異なることから、血液の流れがもたらす体への作用は間違いなくあると実感している。

児童虐待だけではなく、メンタルヘルス患者の急増も、減らない自殺者の問題も、身体の健康問題も。それぞれ縦割りで対応策が検討されているが、その根底には、「過ストレス社会」があるのではないか。それぞれの事象をつなげてみると、見事に「過ストレス」という像が浮かび上がってくる。いま私たちが見えていて、対処しようとしているのは、あくまで起きた現象に対しての限定的な対処に過ぎず、その原因の除去ではない、そんな気がしているのである。そこで数々の問題の解決に向けて提唱したいのが、「低ストレス社会化」という構想だ。現在までの右肩上がりできた「過ストレス社会」に抗するものである。

「構想はいいが、具体的に何をするのか」…こう言われると、すぐさま沈黙せざるを得ない。まだまだ思いついた段階だ。今後、具体策を深めていきたい。ただ、どうも各種の問題の根底にある本質はこの点だと確信している。そこで、いま思いつく範囲で視点を記すとすれば、以下のようなものだ。

■大人の反省から紡ぎなおす子どもの生きる環境

まずは子どもの生きる環境を徹底して見直すこと。次の社会の担い手は子どもたちだ。これまでの社会の果実を享受してきた私たちは、次の世代にこの社会を責任を持って受け渡していく視点が不可欠だ。親のしつけや地域の関わり方。教育の環境。受験教育偏重がもたらす弊害は、グローバルな社会を迎えた今も改善されていない。子どもの時に何を身につけるべきなのか、どんなに時間が限られていても、必ず身につけつべきは何か。生きていくために必要なこととは何か。大人になって社会を背負う立場になったときに備えてなければならないこととは何か。そんなことを、まずは大人が考え、自らの反省のもとに自己改善から始めるべきなのだろう。現在、子どもたちが接している文化の余りの貧困さ。メディアも経済界も、子どもを景気浮揚の対象とみる傾向が強すぎる。これでは子どもは不幸だ。小学生から塾に行き、泥まみれや擦り傷を負ったり喧嘩をしたりする経験もないまま社会人になる。テレビはあくまでビジュアルに重きがおかれ、子どもの思考や情感に浅はかな影響を与えているのではないか。「昔はよかった」などと言うつもりはない。今のほうがいい面もたくさんある。しかし子どもから、自ら考え、葛藤したり、解決の喜びを知ったりする機会や時間を奪ってしまっているのではないか。いま、答えのない時代に直面しているのに、答えが、さも、そこにあるかのように教育されている。だから「周りがやっているから自分もやる」的な、主体性のない子どもたちが再生産されてしまう。自分で考え、事態を解決に導く姿勢を身につけてほしいものだ。どんな大人になってほしいのか、そんな位置づけから逆算して、子どもの生き方を想定し、その環境を整えていくことが必要だ。そこには児童虐待の要因である親のケアも含まれているし、塾偏重の時間の使い方や、子どもの接するメディアなど文化のあり方までが含まれている。子どもは大人の鏡だ。子どもの経済的・日常的貧困は、大人の貧困ぶりを現わしていると率直に反省をしたい。

■生きがいある働き方

大人の働き方にも、抜本的な改善が必要だ。なぜ働くのか。「経済的な点」「周囲が働いているから」ということもあろうが、せっかくの生きている大切な時間の相当時間を使うのだから、「自己実現」としての「生きがい」を感じるために働く、という人々がたくさん存在している社会にしたいものだ。しかし、仕事の現場を垣間見ると、皆、何かに追い詰められていないかと思う。「民間はもっと大変なんだ」「公務員は甘い」。そんな声を聞くことがよくある。なるほどと思い、この数年、行政職員の仕事ぶりを見てきたが、そんなことはない。行政職員は現実には大半が定数削減で一人当たりの仕事量が急増している環境に直面しながら、それを何とか凌いでいる。「民間は…」の言葉の真意をひも解くならば、その言葉の主の仕事環境に多大なストレスを抱える環境があるからなのではないだろうか。そちらのほうに改善の余地があるのではないか。まず働き方である。日本社会は何か、働くことに過度に形式が用いられているように思う。精神論が強過ぎる。他国と比較したい。北欧、私の知る限りノルウェーとスウェーデンは、勤務時間は「9時―16時」で土日休み、夏休みは必ず取る。ノルウェーは油田があり、スウェーデンは軍需産業で経済を保たせているという向きもあるが、それでも一人ひとりの働き方の比較でみれば、雲泥の差だ。スウェーデンのマルメでは、医師や看護師が夏休みを取るために病棟が閉鎖されるという。日本ではすぐさまバッシングが起きるはずだ。しかし、この国ではそんな声は上がらないという。働く人の「働き方」に社会が理解を示し、その分、失うものや負担があってもいい、という歴史がある。食事は日本のほうがおいしく、選択肢も豊富だ。そして税金も少なく、可処分所得は高い。しかし日本はその代償に、驚くほど過酷で、命を削るような、家庭や地域を犠牲にした働き方をここまで作り上げてしまったのだ。経済的な影響もあるだろうから、ただちに北欧型にせよ!、などと暴論を言うつもりはない。ただ、「自己実現」「生きがい」を感じ、家族との時間や職場以外のもう一つの時間の確保などの視点から、働き方を見つめなおしていかなければならないと思う。リストラされまいとして命を削って仕事をする人々の姿は、まわりまわってその周囲に対し、ストレスの矛先を向けることとなる。「経済が厳しい時に、何ということを言うのか」とおしかりを受けそうだが、肝心の働き手が高ストレスで疲れ切って燃え尽きてしまえば、持続可能な経済的効果は生まれない。充分な休養を経て、仕事に臨み、一定時間集中して仕事をこなすスタイルのほうが、よほど生産性が上がるのではないかと思うのだが…。ところで労働組合は、政治がかった行動から撤退すべきだ。逮捕などされている場合ではない。組合の本分である働く人々のためにこそ、役割を果たすべき時にある。組合が自分の狭い価値観で活動していることも、日本の働く人たちのストレスを軽減することに至らない要因の一つとして見ている。

■晩年期の過ごし方

終の時間、晩年期の過ごし方も社会全体で考えていくべきだろう。家族が突然介護が必要となり、ようやくこの分野に関わるのではなく。元気なうちから、さらには子どもの時分から「死」という絶対不可避な命題を熟考する。そしてそれは、当初の自我を失う恐怖の存在から始まるも、自分の生きる時間が、かけがえのない財産であることをやがては知らせてくれる。自らも死を迎える存在であることに気がつけば、その分、自分の人生にも、そしてその先には他人の人生にも、理解を深めることのきっかけになり、結果、やさしさのあふれる「低ストレス社会」に向かうのではないか。現実は逆にある。「死」はあたりまえに全ての先輩たちが経験してきたことであるにも関わらず、忌み嫌われ、表の社会からは消し去られている。しかし1枚シートを捲り社会の裏側を覗き込むと、そこには最期を迎えた人々の無残で悲惨な姿が見えてくるのである。親戚の叔父が70半ばで亡くなった際、市内の病院でその最期の時を、意識のない本人の手を握りながら過ごしていた。すると。記憶では2回。私の背中越しに、外の廊下を、白い布をかけられたストレッチャーが無言のまま運ばれていく。付き添い、涙する遺族の姿は見られないまま。看取られる人もいないまま。何か大きな荷物を運ぶかのように粛々と運ばれていく。死を待つだけの最期。それも病院のベットで一人孤独に死を迎えること。これほど恐ろしく、悲惨なこともないだろう。しかし、この手の話はよく聞くことだ。家族の犠牲的介護の話も後を絶たない。介護を受ける段になり、家で引き取るやいなや、その家族が自分の人生を犠牲にする生活が始まる。その延長で起きる殺人事件が繰り返される。こうしたことは、冷静に振り返れば、身近に当たり前に起きている数々の事象なのだ。人間の悪い癖は、自分が直面しないと、真剣に考えないという点だ。晩年期の過ごし方、もっと踏み込めば、自分がどんな晩年を過ごし、最期を迎え、どんな送られ方をしたいのか。そんなことを普段から、老若男女関係なく考えておきたいものだ。こうした晩年期における漠然とした恐怖感も、社会が先送りし、当事者たちのみに、その痛みを与えているがために、多くの人たちに、いらぬストレスを与えている。介護をしている家族のストレスを取り除くこと、介護されている人のストレスを取り除くこと、こんなことを念頭に置きたい。そのためには、遺族の姿勢もまた再考する必要があろう。実の親子で手を握り合って最期を迎えられないような、人の道に外れるような歪んだ光景は、それまでの関係に起因する。それまでの生き方にまでさかのぼらねば解決を見ない、奥の深い問題だ。訪問医療を志す医師の話では、最期を迎えようとする人の家族の、他人ごとと片付ける人の多さに、驚いているという。その後には必ずと言っていいほどのう遺産相続争い。故人の残した価値は、お金だけだったのか。それだけの価値だったのか。何と悲しいことだろう。私はこれを個人の話としてとどめることはできない憤りを感じている。このような死の迎え方は、社会の在り方として、間違っている。

■人のせいにしない社会

個人の生き方、思想、考え方についても触れておきたい。個々人の深いところまで言う筋合いではないし、言える立場でもない。ただ、一つ言えるのは、私たちはあまりに「誰かの責任を追求する社会」「誰かに導いてくれることを求める社会」を作り上げてしまった。だから何か問題が起きると、必要以上に誰かのせいにするにとどめ、自分との関わりを意識したり、論じたりすることはない。この外的攻撃型の思考が、他者にストレスを過度に与えることとなる。また、攻撃を受ける側からすれば、それを受けまいと身構えて、日常からストレスを感じることとなる。そしてひとたび攻撃を受ければ、たちまち、心身を病んでしまう。官民問わず、クレーマーなどの問題は、実害を及ぼすなど深刻である。現政権への批判もまた、どうもその傾向を現わしているようだ。応分の責任は当然にあるし、期待している分の失望もあるかもしれない。しかし、政治や行政は、「打ち出の小槌」でもなければ、ドラえもんの「不思議なポケット」でもない。現実の中にあり、今の直面している課題への解決は、言うほど簡単ではない。冷静に考えれば、一人の人間の課題を解決することすらままならない。私たちは、成熟社会となった借金大国で、少子高齢化を迎えようとしている。国外はますますグローバル競争化が進み、その影響も軽視できない。そんな中、内向きに誰かの責任にする傾向が強まるほど、お互いに疑心暗鬼となろう。政権の生み出す成果に焦点を当てて、建設的な批判にとどめるべきであり、むしろ自分が何を引き受けるかを考えることにエネルギーを割くことが大切だ。さらにえば、人の責任すら自分のものとして引き受け、生きていくことはできないだろうか。そうした自立した人が多い社会は、きっと充実した社会なのだろう。今後の社会像やその社会で生きていく人々の心構えとしても、「自ら責任を負う社会」「人のせいにしない社会」を模索していきたいものだ。さらに言えば、「媚(こび)を売る社会」や「背伸びをする社会」も返上したい。これからは等身大で生きること。肩肘を張らないで、生きることを楽しむ余裕のある社会を志向したい。まさに低ストレス社会に行きつく。

これらのことを切り口に「低ストレス社会化構想」を表現してみたかったのだが、一言でまとめれば、こんなことになるだろう。

私たちは好むと好まざるとにかかわらず、生を受けた。そしてこの日本という社会に生きている。生きている以上、もっと自分の目の前にあることを大切にしていこうではないか。そして私たちはいずれこの社会を去っていく時が来る。その時にどんな思いで卒業していけるのか。絶望的な気持ちで去っていくのは何よりも辛いだろう。子どもたちが社会を継続してくれなければ私たちの足跡の残された社会自体が継続されなくなる。生きてきた証し自体が存在しなくなることも、私たちの恐怖を生む。私たちは歴史的な流れに位置づいて生きている。この社会をもっと大切にしなければならない。そしてこの社会で生きている人たちをもっと大切にしなければならない。その人たちを大切にする第一歩として、ストレスのできるだけ感じなくてもいいような社会は模索できないだろうか。子どもの生きる環境や働き方、晩年の迎え方、個人の生きる姿勢、こんなところから取り組んでいったらどうだろうか。まずは自分の生き方の見直しから、である。

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と、つらつらと思うままに書いてみたが。しかし、どこから始めるのか。もちろん「自分から」なのだが、あまりに壮大な話であり、絶対的な特効薬はない。目の前で、もうすぐ車にぶつかることが分かっているのに、それを止めることのできないもどかしさに似ている。私たちの生きる社会は、自由な民主主義社会。だれか絶対的な「優秀なリーダー」(「」は眉唾の意)が導いてくれる社会を否定している。私たちがリーダー、つまり政治家を選ぶ。しかし、この制度も、危なっかしいもので、使い勝手が悪い。議会という、その体現された機関でも、私の体験上、「こうできればもっと市民に信頼されるのに」と思うことも、全会一致をみなければ進まない。この遅々とした歩みに危機感を募らせる毎日が続く。

それでも、一方でいろいろな人が生きているからこそ、社会全体は簡単には方向を変えることはできないのだろう、とも思う。。北風と太陽の童話がある。社会の改革を促す時に、「北風」を吹き付け、コートをはぎ取ろうとする路線をとるのか。それとも「太陽」で照らしながら、自発的にコートを脱いでもらうのか。私は後者を選択したい。そしてそれは東洋医学の効用のように、ゆっくりと効果が出るのだろう。しかし、その体質自体を適正化し強化していくのだから、全体の社会は強固なものとなり、ちょっとやそっとでは揺るがない信頼できるものとなる。この社会に希望を持ち、虐待の犠牲となった子どもや、無念な思いをにじませてこの世を去っていく孤独な人々に思いを馳せつつ、今後も、自分なりに貢献できることを継続していきたい。「低ストレス社会化」という雑駁なイメージでの話だが、今後の私の活動は、このキーワードを根底において行なっていく。そして責任意識を強く持った同志たちとともに、次の時代の社会像を建設・創造することにエネルギーを割いていきたい。