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「良い写真が撮れないのは近寄りが足りないからだ」

ジェームズ・ナクトウェイ(写真家)
ドキュメンタリー映画『戦場のフォトグラファー』にて

この言葉は、写真家の世界だけの専売特許ではない。

私たち政治・行政に携わる者にも、
本質を伝えてくれる。

この言葉を思い出させるような、
介護にまつわるこんな話を聞いた。

       ★

ある市内在住の女性。

90歳前後の高齢の母親の介護をしている。

その母親。

現在は、物事の認識はできるものの、
言葉は出せない状態。
自力で体を動かすこともできない。

ベットに寝たきりでいると体が硬直し、
その女性が体をマッサージしてあげると、
ようやく関節の稼働域が広がる。
その時だけは、顔は和やかになるという。

母親は、この女性が介護するたびに、言う。

「施設には行きたくない」
「次はいつ来るの」
「『来れたら来る』なんて言うなら来ないほうがいい」

わがままや無理難題ともとれる言葉の数々。
女性が母親と会うたびに繰り返される。

「わがまま」とは、言い過ぎかもしれない。

被介護者の、
もどかしく、つらい気持ちが
言わせたものなのかもしれない。

いずれにしても。

現在、言葉を発することができなくなった後も、
不満な意思を様々な態度で表示し続けているという。

生真面目な女性は、
心の傷を受けながらも、
その母の気持ちに何とか報いようとしている。

朝を迎えるたびに、
その日の一日のことを思い、
暗澹たる思いを抱える毎日だという。

一人で抱えるのは苦しい。

そこで兄弟たちにも
助けを求める。

すると兄から帰ってくるのは次のような言葉だった。

「施設に入れてしまえ」
「探せば受け入れ先はあるだろう」

母親の気持ちに寄り添い、
在宅サービスにこだわって、
献身的に介護してきた女性は、
憤りを禁じ得なかった。

もう、兄弟は頼るまい、
と決め、自ら介護をすることにした。

女性は夫と息子と同居しているが、
その自宅にはほとんど帰れず。

日中は母親の家にいて、
ヘルパーが来る
午後の時間に自宅に戻り家事をする。
時々、近所の友人と息抜きができる。

夜は母親の家に泊まり、
朝自宅に戻って家事をし、
夫の出勤と一緒に家を出て、
また同じように母親の元へ行く。

毎日苦痛であり、本当に大変だが、
母親の面倒は自分以外に見る者がいない。

そのため、これからもこうした毎日を
続けていかざるを得ないという。

       ★

これは美談として取り上げたのではない。

在宅における家族の介護の
現実の厳しさが現れている。

介護保険制度は、
「介護の社会化」、
つまり介護における家族の大変さ解消するために
導入されたはずだった。

やはり介護は家族にとって、
人生を犠牲にしなければ、
できないものなのだろうか。

介護保険制度ができて
確実に救われた家庭があるもの事実。

しかし、一方で、この女性のように、
結局は自分の人生の時間やエネルギーの大半を
介護に注がねばならないケースもある。

実際、こうした事例を象徴するような介護殺人が、
ここ数年で、市内で複数起きている。

潜在的な介護地獄は大変な数に上るのではないか。

この女性や介護士の話では、
制度運用上の柔軟化、
メニューの多様化、
軽微な医療行為を可能とすること、
などの工夫でかなり介護される人が
精神的に前向きになるという。

被介護者が前向きになれば、
家族もまた気持ちの面では救われるだろう。

ヘルパーさんが自宅を訪問。
そこでヘルパーさんが、
体が硬直している人にマッサージをする。

それだけで被介護者は気持ちが楽になり、
明るくなる。

家族にもつらく当たらなくなる。

しかし。
マッサージは医療行為だ。

ヘルパーは介護はできても、
医療行為はやってはならない。

これは違反となる。

医療行為には医療行為専門の資格を
有している人が当たるのだという。

介護保険導入前はできた。
そのサービスの提供が、
今はできないという。

被介護者の精神面のケアを第一にし、
その人が喜ぶサービスを、
そばにいる人が提供できるような環境はできないものか。

被介護者が喜び、前向きになれば、
女性が受けた「わがまま」や「無理難題」は、
相当少なくなるのではないか。

在宅サービス。

自分の住み慣れた家で最期を迎えたい。
そう願っている人は、本当に多い。

施設は「家族に迷惑をかけたくない」
から選択するのであって、
本音は在宅で過ごしたい、
と考える人がほとんどではないか。

しかし、その在宅介護の実態は、
女性のようなケースが少なくない。

別のケースでは、
ある公務員の方から、
自分の父親にまつわる壮絶な家族介護の一端を聞いた。

その父親が亡くなった時、
家族の誰もが悲しい感情よりも、
「ほっとした」という。

では次善の策の施設介護はどうか。

施設は運営主体の不足や財政の制約から、
微増のペースがやっとの状況。

「施設が作れないから在宅」
というのが、
現在の介護政策の実態だ。

「被介護者の幸せのための在宅」ではなく、
次善の策の施設も量の充足が困難だから、
在宅で仕方なく対応している。

そこには財政の制約がある。

しかし、ここで熟考したい。

10年後。

団塊の世代、人口が多い60代前半の世代が、
あと10年して本格的な介護社会に突入したら…。

質どころか、
量の充足すら危うい。

今でさえ、量すら足りていないのに。

特にさいたまは急激な高齢化地域となる。
なるべく早く将来を見据えて動くことが求められる。

介護の質を担保する介護従事者は、
景気が良くなるとその職を離れていく。

生計を立てられるだけの
十分な待遇は得ることができないからだ。

志があっても、
生活のために仕事を離れざるを得ないのが、
従事者の置かれた現状である。

新政権はここに大きな変化を
もたらすことができるだろうか。

今、ここで介護の本質から
問い直す時が来ているのだろう。

財政の問題もあるが、
それはいったん置いておく。

その前に、介護を受ける立場、
人生の最期を迎える立場の人たちに、
近寄り、想像力をはたらかせたいものだ。

また、その身近で介護に携わる家族、
ヘルパーの気持ちにも、
同時に想像力をはたらかせたい。

お金の問題は、それから考えたらどうか。

被介護者を囲んだ関係者の幸せや、
安定が満たされるには、どんなことが必要か。
何が足りないのか。
余計なことは何か。

そんなことを揃えた上で、
お金の話に移る。

介護環境の改善のためにはどのくらいのお金が必要で、
いくら足りないのか。
そのお金は誰が負担すべきなのか。

ギスギスした家族ら周囲の姿。
機械的に仕事をするだけで手いっぱいのヘルパー。

そんな人たちに囲まれて
人生の最期を迎える被介護者の無念な気持ちは、
いかばかりか。

疲れ切り、人生を犠牲にして、
自分の親を送る人の壮絶な生活。

ここで今一度、抜本的な見直しを、
国でも自治体でも行なうべきなのだろう。

母親を介護する女性は、
自分置かれた環境の改善を求めるのではなく、
下の言葉を私に伝えた。

「もっと携わっている人の気持ちを聞いてほしい」

私もまた、できるところから着手していきたい。
ナクトウェイの言う「近寄り」の大切さを実感した。