• 「猫の手貸します」

せわしい毎日が続く。
こんな暑い日々の中、
注目の裁判員制度が始まった。

私はこの裁判員制度には好意的だった。

取り調べの可視化など先送りされた課題もあるが、
この制度は様々な点で、
私たちの社会に益をもたらすものと考えている。

専門家の世界。
その狭い世界で行われていた裁判を、
国民の生活に浸透させる効果は測り知れない。

難解な専門用語を平易な言葉に置き換える、
という試みもすでに行なわれているという。

何より、裁判員として、
国民が裁判に関わることにより、
この国を運営する一端を経験し、
司法分野について深く考える機会ともなる。

これまでは司法の分野。

学者と行政、裁判官と検察、弁護士、これに原告・被告。

こうした特定の人しか関わりなく、
国民という立場では、
原告・被告のどちらかになることはあっても、
裁く立場に立つことはなかった。

今後は。

裁判員となれば、
時に「死刑」に向き合うような場面にも遭遇する。

重い責任を負うこととなるが、
民主主義はその責任を「民」が果たすからこそ、
成り立ちえるものだ。

かくして長らく閉鎖された分野だった司法にも
国民参加の機会が設けられることとなった。

様々な課題が指摘されているから、
同時並行でその課題も解決して行かなければならなし、
制度を運用する中で、
動かしながら制度を改革していく、
そんな流れで制度がよりよく作られていくのだろう。

ところで。

この裁判員制度の特徴の中で、
注目している点がある。

それは「無作為抽出」という選出方法だ。

「やりたい」という意志を持った人を
公募しているわけではない。

政治家を選ぶ選挙は、
その候補者となる者は、
自らの意思が前提となる。

しかし、この裁判員制度は、
その人の意思に関係なく、
選ばれ候補者となる。
(場合によって辞退のケースはある)

この手法。

意思に関係はない人たちが裁判員になることで、
率直に目の前の課題に、
打算なく関わっていくことができるのではないか。

つまり。

専門家の訓練を積んでおらず、
裁判には関わったことのない人たち、
が裁判に加わる。

だからこそ。

真の国民意識に近い判断が担保されるのではないか。

偶然に選ばれるわけだが、
その偶然性こそ、
この制度の一つの注目すべき点である。

そして。

この選出方法について述べておきたい。

この方法。
自治体の「市民参加(以下、「参画」を含む)」に、
大いに活用できると考えている。

以前、ドイツの市民参加の手法に、
この「無作為抽出」の方法があると聞いて、
気になっていた。

今回の裁判員でもそうだったが、
それ以外にも国内に事例があった。

文京区では、成沢区長の下、
総合計画の見直しに着手している。

この策定プロセスに、
無作為抽出で選ばれた区民が関わっている。

また、先日仕分け人として参加した
富士見市の事業仕分けは、
やはり市民の「判定人」を無作為抽出で選定した。

参加者の感想は、
「勉強になった」
「こうした試みを続けてほしい」
だった。

そのれが「気づき」の機会となったようだ。

さて。

我がさいたま市。

5月に新市長が誕生した。

清水新市長のマニフェストの一項目には
「自治基本条例の策定」とある。

この任期4年間の中で、
策定作業を進めるだろう。

自治基本条例。

日本国に、最高法規として
「憲法」を定めているように、
自治体も自立した立場として、
「自治体の憲法」を定めるべき、
との観点から、
当条例の制定自治体が急速に増えている。

2000年分権一括法で、
国と自治体は「対等」「協力」の関係、
と位置づけが改められたのがその背景にある。

いわば「自治宣言」のようなものだ。

私も兼ねてから必要性を感じていた。
我が会派でも、第一番目に策定を提案している。

ただし。

ただ作ればいい、とも考えていない。

単に作るだけならば、
「絵にかいた餅」となってしまう。

他の自治体がやっているから私たちも、
というのでは「自治」とは言えない。

自治体の最高法規を創る。
ならば、それ相応のプロセスが必要だ。

特にさいたま市民の手によるもの、
にしなければならないと思う。

ここで言う市民とは、
議員でも行政職員でも、特定の市民でもなく、
さいたま市の市民全体の意思によるもの、
という意味である。

そこで。

私は先ほどの無作為抽出で選ばれた市民に、
策定に関わってもらったらどうか、と考えている。

これまで。

例えば、さいたま市の「総合振興計画」。

平成29年までを視野に入れた総合的計画。
2001年、合併後に策定された。

この時。

議員や行政職員に以外に参加した市民は、
●各種団体関係者
●公募市民
であった。

各種団体の関係者は行政に密接に関係している。
また、公募市民は意志をもっている。

だから、これらの方法も決して間違っている、
というつもりはない。

しかし。

これだけでは、
さいたま市の市民意識の全体を
網羅できておらず、
市民全体の意向を反映している、
とは言えないのではないか。

各種団体関係者は地域の人間関係で選ばれたり、
行政が選出する。

一方の公募市民は、
「参加したい」という、
自らの意思をもっている方である。

時に特定の団体により動員されることもあり、
特定の意見が全体の意思と混同して
反映されてしまう危険性もある。

もっと幅広く、
できる限り現実の生活者的、
納税者的市民意識に近い意見を
反映することはできないものか。

ということであれば、
この無作為抽出という方法が、
大きな可能性を持っていると思う次第である。

このさいたま市で生活している以上、
さいたま市の政治・行政には必ず関係がある。

選挙で政治家を選ぶ。
納税の義務を果たしている。
行政の提供する市民サービスの提供を受ける。
「さいたま市に住んでいる」と
自己紹介で対外的に市を説明する。

こんなわけで。

さいたま市の最高法規である自治基本条例こそ、
生活者の声が幅広く的確に反映されるべきだと考えている。

生活者としての視点や納税者の視点を、
存分に発揮していただき、
特定の専門家のみによる策定プロセスではない、
「普通」の市民にこそ関わってもらう。

「条例」だから、
最後は議会の議決を必要とするが、
その案の策定過程において、
ぜひ無作為抽出の市民の参加を提案したい。

この点について、
いずれ改めて触れてみたい。

いずれにしても、
裁判員制度がスタートした。