• 「猫の手貸します」

本日は沖縄の「慰霊の日」である。

今年の3月中旬、
沖縄の地を踏んだ。
私自身4度目である。

この時の目的は、
沖縄の平和行政や
沖縄戦における日本軍の関与についての
調査などであった。

沖縄の複数の人からかなり踏み込んだ話を聞いていたし、
現場の爪痕をみせていただいていた。

そんなこともあって、
視察から約3ヶ月がたち
本日の慰霊の日を迎えても、
まだ記憶に新しい感覚である。

その時、平和祈念資料館の館長は言っていた。
「生き残った方々の証言を集めているが、
 高齢化している。
 早くやらねばならないと考えているが、
 予算がなく、なかなか進まない…」

あの戦争で、
当時の4分の1の県民が亡くなった。
このように、
数の面からその凄まじさを述べるのは、
ある意味では簡単だ。

ただ、そばにいる友人・知人、もしくは家族のうち、
4人の中で1人が命を失うことを考えると、
尋常ではないことに気が付く。

3月の沖縄の風に吹かれながら、
現地の方に読谷村の「チビチリガマ」に
連れて行っていただいた。

遠くには海が見える。
あたり一面、
畑の広がるのどかな風景。

迷った挙句に
畑の間を縫って到着した。
本当にそんなものがあるのだろうか、
と思えるほどのんびりとした景色だった。

車から降りる。
階段を降り、
そのガマに近づく。
木々が周囲とを隔てる壁となり、
うっそうとした静かな空間がそこにあった。

ガマとは洞窟のことだ。
ここは1945年、
波平地区に住んでいた住民85名が
集団自決した場所である。

そのガマの手前には看板があり、
見学者に対して、
中に入ることを拒否する
旨の文言が記されている。

皆様ガ、ガマにはいって私達の肉親を
「踏みつぶしている」ことを私達は、
我慢できません
、   
と。

ガマの隣の「平和の像」に手を合わせ、
その空間を後にするべく階段を上る。

あたり一面の畑の風景に再び戻ったとき、
遠くに広がる海が見えた。
その時、ふと想像力がはたらいた。

あの海から、
圧倒的な軍事力を誇る米軍が、
砲弾の嵐を浴びせる。
空気をつんざく鋭利な音。
身体が砕け散る人々。
避難するも刻々と近づく恐怖。

そう、ここは沖縄本島で一番最初に
米軍が上陸した地なのである。

ガマに避難した人たちは、
どんな想いで最期を迎えたのだろう。

沖縄に生きた人々。
そこで命を失った人々。

そんな人たちに、
時々は想いを巡らせたい。

それが今年の私の慰霊の日に臨む気持ちであった。

      ★

6月23日(月)

●早朝、自宅にて議案等の調査など
●午前〜午後、総合政策委員会・事案外
●午後、議会にて議案等の調査など
●夜、明大大学院授業
●明大大学院学生らとの懇親