• 「猫の手貸します」

私事だが、
私の祖母(母方)は「米寿」を迎えた。

当然に腰は曲がり、
顔に皺は刻まれているものの、
五感はしっかりとしており、
下手をすれば孫よりもエネルギーがある。

何より声に輪郭がある。
時間があれば、
そこらじゅうを自らの足で歩き回っている。
普段は何かと家族への小言を言うようで、
孫と議論することも少なくない。
本当に元気だ。

その祖母の誕生日の数日後、
首都圏に散らばる親類が集まって、
気持ちのいいお祝いの席が持たれた。

祖母の88年間は
「もう一つの日本の歴史」。
様々な経験の積み重ねである。

戦争中に祖母の父親が亡くなった。
このとき祖母は19歳。

生活の糧を得るために、
農作業で得た花などを売りに、
リアカーを牽いた。
浦和から、なんと上野まで行ったという。

当時は舗装などされていないから、
条件の悪い道路を、
ただただ自らの足で行ったのだという。
そんなことを淡々と話す祖母。

今で言えば2万円くらいの
「いい値段」で売れたそうだが、
戦争が激しくなり、
焼夷弾がすぐ近くに落下。

命の危険を感じ、
これを持って上野まで足を伸ばすのはやめ、
商売の場所は蕨の市場に変えたそうだ。

また、私の生まれた1971年に他界した
祖父との逢瀬の話は、圧巻だ。

戦前、戦中の重たい空気の漂う時期。
お互い惹かれ合い、
まずは人を忍んだ交際が始まる。

やがて一緒になりたいと思っていたが、
(祖母の)両親が認めてくれない。

そこで戦争中にもかかわらず、
熱海に二人で逃飛行した。
「死んでもいい」と思っての、
駆け落ちの要素の強い旅行だったという。
すぐに祖父の親が迎えに来て、
とんぼ返りすることとなったようだが。

戦争の空気の漂う中での恋愛だ。
よほどの燃え上がる恋だったのだろう。

その直後、祖父は戦争に6年行くこととなる。
赴任先は東南アジアだった。
その間待ち続け、
無事に帰国したとき、
2人は晴れて居を同じくすることとなった。

戦後の貧しい中、
先祖の残した農地を少ない人手で耕し続け、
私の母を含め、
2男2女が育てられた。

映画になるような
高尚な話ではないが、
私にとっては、
ルーツの一端である。
誇りある歴史だ。

米寿のお祝いの時間は、
古き良き、というのだろうか、
大家族的なつながりを持っていることが、
何よりの宝物である、
と改めて実感させてくれた。

その中心にいるのは、
「老いてなお盛ん」な祖母であった。

       ★

6月14日(土)

●早朝、自宅にて事務作業など
●岩手県で「震度6強」の大地震発生の報
●午前、明大にて「災害とライフライン」勉強会
●午後、明大にて危機管理の授業参入
●夜、道場にて稽古
●夜市民との懇談

6月15日(日)

●午前、自宅にて事務作業など
●祖母の米寿のお祝い会
●夜、自宅にて事務作業など