• 「猫の手貸します」
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さいたま市で初めて設置された
「ファミリーホーム」のスタートの日。
「ファミリーホーム」とは子どもの入所する施設。
定員6人までの小規模の施設で、
何らかの理由で親と過ごすことのできない子どもたちに
生活環境を提供する場所となる。
当施設は、民間NPO団体が施設を入手し、運営も行う。
行政は補助金を出して支えるという方式。
施設といっても、この「ファミリーホーム」は、
競売に出た民家を購入した人に借りたもので、
一般の家そのものである。
周囲には畑が広がる静かでのどかな場所。
子どもが育つにはもってこいの場所だ。
この運営主体のNPO団体主宰者に招かれ、
関係者の懇談の場に出席した次第である。
ここで「ファミリーホーム」について整理しておく。
虐待や親の精神疾患などで
親と同居できない子どもは多数存在している。
その子どもたちはその後の生活のため、
児童相談所の判断により、
「里親」に引き取り手を求めるか、
「児童養護施設」に入所するか、
などいくつかの道をたどる。
現実には里親は数がなかなか伸びず、
大半を児童養護施設に引き取るというのが現状である。
世界的潮流は、少なくとも先進国では、
「どんな子どもであっても家庭的環境で育つべき」
ということを根底に子育て政策が進められている。
一方日本でも、遅ればせながら民主党政権下で、
最近になって、
ようやくこの潮流が政策に反映されるようになってきた。
実の親との「再統合」で、
その子どもが再び一緒に暮らせるようになれば、
それに越したことはない。
市の児童相談所もその方向に向けて、
積極的に取り組んでいる。
しかし実際には、
当の親が変わらなければ解決しないわけで、
これほど難しいことはない。
それに代わる「里親」も、
保護が必要な子どもの数からしたら、
とても追いつかないのが現状。
それでやむを得ず、
「児童養護施設」に入所、となるわけだが、
この施設は多人数であり、家庭的環境とはほど遠い。
私は、実際に市の児童養護施設に
ボランティアとして何度も宿泊したが、
施設職員たちの命を削るような奮闘ぶりでも、
親の変わりはできない。
物理的に困難なのだ。
子どもたちは施設の人を「○○さん」と呼ぶ。
「同居する他人」としての関係である。
つまり「児童養護施設」は、
子どもの居場所の確保をしているということだ。
しかしこれが圧倒的な主流となっているのが現実なのだ。
この状況を所与のものとせず、
「里親」とまでいかなくとも、
より家庭的な環境を子どもたちに提供しよう、
ということで制度化されたのが、
この「ファミリーホーム」である。
だから児童養護施設の定員が60人(さいたま市)
という大所帯であることに比べて、
ファンリーホームは「6人」を定員としている。
ここで子どもたちは施設の運営者たちを親代わりにし、
家庭的な環境に接するのである。
ファミリーホームは、今後ますます、
さいたま市を含め、全国でも増えていくだろう。
私がここで記しておきたいのは。
今回の、このさいたま市初の施設のスタートは、
主宰者である若者の志と決断、覚悟なしには、
成し得なかった、ということだ。
そして、この周りに集まった、
主宰者を応援しようという人たちの
意志の結集によるものでもある。
子どもたちにとって「親代わり」ということは、
施設の運営をいったん始めたら、
自己都合で辞めたくとも辞められない、
ということを意味する。
つまりは親は、どんな親でもずっと親であるから、
それと同様の覚悟が必要とされる、ということなのである。
「やむにやまれぬ」という「民」の志と行動により、
社会の課題解決を目指す試みほど、
私の心を奮い立たせるものはない。
もはやどんな分野でも、
課題の解決は行政依存型では限界である。
民の志に裏付けされた行動によってこそ、突破口が開ける。
この志ある若者たちの取り組みを、
市政に責任ある議員として、
私は全面的にサポートしていきたい。