• 「猫の手貸します」

橋本市長率いる「大阪維新の会」が
提案している「教育基本条例案」について、
文部科学省が「法に抵触する」
という見解を示したとの報道があった。
これが事実として、
私はこの文部省見解に違和感をもった。
とは言っても。
この違和感は、
けっして教育基本条例を支持しているから、
ではない。
条例の成り立ちや内容は、
むしろ、あまり好ましいものとは思っていない。
大阪の地域事情もあるだろうから、
軽々に論じるつもりはないが、
この条例の成立をもってしても、
今、大阪で起きていることの課題の解決につながらず、
それどころか逆効果となってしまうのではないか
と危惧しているところだ。
この点は過去の私のブログにも記している。
ではなぜ。
私が文部科学省の
「法に抵触」という見解に違和感を持ったのか。
じっくり考えてみると、
それは教育行政への「民意の反映」についての
違和感なのだと気がついた。
教育基本条例は橋本市長や松井知事の専売特許である。
両者は選挙においてそれを提示し、当選を果たした。
こうして民意を汲み取って政治ポストに就任したわけだが、
文部省見解が妥当とするならば、
その民意は法の壁により否定されることとなる。
もしそうだとして。
では、そもそも教育行政への民意はどう反映されているのか。
民意は誰がどう汲み入れているのか。
その経路がないのではないか、
といった疑問が沸々と湧いてきたのである。
なるほど、政治サイドによる教育への介入の抑制は、
歴史的教訓から導き出されたものであり、
それが戦後の教育行政の制度に
位置づけられきたこととして理解できなくもない。
だから法体系や制度として、
民選の政治家の介入は間接的なものに
とどまっているということなのだろう。
さいたま市の例で説明すると…
市教育委員会の構成員である教育委員は、
市長が選任し、議会の承認を得て、市長が任命する。
ここに市長や議員といった政治家の権限が及ぼされるが、
残り部分、合議体の教育委員会議を意思決定機関として、
教育行政のものごとが決められている。
予算や条例は議会が決めるが、
そのほかは教育委員会が広く所管しているのである。
では、その教育委員会による決定において、
民意を注入する回路は存在しているのか。
重要なことを決めているのは
文部科学省の官僚であり、
市教委の職員ではないのか。
もちろん国でも自治体でも、
各種の審議会などでは、
大学教授ら民間人の参加により議論されている。
政治家に選ばれた教育委員も教育委員会議の構成員である。
ただその実態は、ほとんどのケースにおいて、
事務局の席に座る行政職員が「たたき台」を作成し、
そこに会合で出た意見を踏まえて
多少の民意らしき修正を加えた形で決定の場に進んでいく。
こうして教育行政上の中身が決められてきたのだ。
いわば官意が重要なことを決めてきたのだといえる。
さらに。
半年以上、文教委員会で教育委員会を見てきた私の実感として、
「地域主権」が議論されているこの時代に、教育に関しては、
地域の意向よりも、中央の意向が重視されているような印象を持っている。
文部科学省から都道府県教育委員会へ、
都道府県教育委員会から市町村教区委員会へ。
それぞれ上意下達方式の
指示命令系統が頑然と存在しているのである。
この構造が、教育委員会や各学校の人事や行政において
時代遅れの硬直化した現象を存続させていることは否めない。
さて。
これまでも各界の人から
文部科学省や教育委員会の解体の声は上がっていた。
それは以上の教育行政上の課題を認識し、
改革を志向する人たちからのまっとうな意見であった。
私も官意の決めている現在の教育行政の古さ、
旧泰然としたところにメスを入れる必要性を強く感じている。
ただ、その方法が維新の会のような方法がいいのか、
以前、一時期行なわれていた「準公選制」をはじめ、
教育委員を選挙で選ぶ方式がいいのか、
その課題解決方法については、
確定的な答えを用意できていない。
少なくとも、民意を汲んできた維新の会の意向に対し、
中央官庁である文部科学省が「法に抵触」とし、
それを府教委が金科玉条のように振りかざす構図には、
違和感を感じずにいられない。
維新の会の行動が、
そうした民意の反映への行動という面を含んでいるなら、
条例への評価は別にして、大いに注目に値するものだ。
時代の転換期に解決されなければならない課題の一つとして、
この「教育行政への民意の反映」という宿題が、
俎上に上っていることも忘れてはならないのである。