• 「猫の手貸します」

昨日。
全く異なる場で、異なる人から、
同様の話を聞いた。偶然に。
一言でいえば「脱行政依存社会」。
東日本大震災が促す大転換の方向性の一つが、
このキーワードによって示されていると考えている。
まず。
子どもへの防災教育の実績をもつ、
片田群馬大学院教授。
今回の東日本大震災で「釜石の奇跡」といわれる、
3000人の子どもたちが津波被害を逃れた立役者である。
片田教授の話は、さいたま市議会内に設置された
災害に強いまちづくり議員連盟主催の講演会で聞いた。
この講演内容については、
防災政策を考える上で重要な指摘があったので、
後ほどその概要を記したい。
ここでは、その際の片田教授の言葉を紹介したい。
「大いなる自然の営みに対する畏敬の念を持ち、
 行政に委ねることなく自らの命を守ることに主体的たれ」
日本の国は防災について過保護過ぎる、という。
行政に依存する姿勢により、
自分の判断や行動がおろそかになる傾向があるというのだ。
現に今回、死者を多数出したある自治体では、
津波ハザードマップで危険の判断をされなかった
「白色の場所」で亡くなった方が大半であった。
このハザードマップは、
明治三陸大津波の被災状況を基に作成されたものである。
つまり過去の記録であり参考にすぎないのであるが、
行政の作成した参考にすぎないこの資料を過大視し、
特に危険性が指摘されなかった場所の住民らが、
安心してしまったことから
高台に逃げることを怠ってしまったようなのだ。
被災した市議の話を聞くために訪問した大船渡市でも
私は同様のことを聞いている。
「海に近い家の人たちは助かったが、
 普段、津波が到達するはずがない、
 と思った人たちの多くが犠牲になっている」
とのことだった。
行政の出すものは完全だ、安心だ、という思い込みが、
こうした自主的避難の発想を失わせてしまったようだ。
行政依存が命にかかわるケースの話である。
もう一つ。
介護・医療などの市民間の相互扶助ネットワークの
市民活動の代表者との懇談にて。
近い将来迫りくる「高齢急増の人口構造社会」には、
行政は充分なサービスを提供できないだろう、
という意見でお互いに一致した。
お金が足りない、のである。
でも、お金はかかる、のである。
どうみても早晩、差し引きではマイナスとなる。
年金・介護・医療…
どれも重要だが、前時代的基盤により設計されているため、
早晩パンクすることは避けられないだろう。
増税や保険料等の受益者負担金の増額も限界がある。
これ以上、行政という回路を通じての解決を目指しても、
おそらく立ち行かなくなるのだ。
だから今から市民同士の「共助」のネットワークを形成し、
自分たちで助け合って乗り越えていこう、
というコンセプトの取り組みが始まっているのだ。
私は大賛成であり、こうした取り組みが
無数に地域に広がりを見せることを期待している。
上記の2つの話から分かるように、
もはや物理的に行政に依存できない状況なのだ。
さらに。
行政に依存することにより、
個人は果たして本当の幸せを獲得できているのだろうか、
と私は考えるのである。
生活保護。
この伸びは社会問題である。
財政的に見れば「急増」である。
ただ財政の論理だけで語ると間違ってしまう。
財政抑制の観点から受給制限すれば、
それこそ人間的な生活が成立しないケースが出てくる。
だから私は、財政の危機的認識を持ち合わせているものの、
現在の生活保護受給そのものについては、一定の理解をしている。
違和感があるのは、
生活保護しかない、という発想や、
もしくは生活保護を受けてしまうと、
ずっとそのままの生活が続く、という点だ。
その前後にいろいろな策が打てるのではないか。
私は財政論よりも「幸福論」で生活保護を見ていきたい。
生活保護を受けている状況が、
はたしてその人にとって幸せなのだろうか。
生活保護が受給できることにより、最悪な状況から脱することができ、
相対的にその時に幸せを感じることが一時的にはあるかもしれない。
しかし、時間の経過とともに、
やはり汗を流して自分で稼いで自立して生活をしたい、
そんな欲求を、どんな人でも持つのではないか。
生活保護の考え方は、
「自立」をその目的地としている。
が、もはや生活保護制度の枠内だけでは、
自立を促していくことは難しい。
肝心のケースワーカーは人員不足の中、
対応で手いっぱいで自立支援まで手が回っていない。
就労支援や一時的な生活保障金の支給など、
生活保護の周囲に手厚い自立支援策を備えることが必要だろう。
この生活保護行政には、
精神疾患やアルコール中毒などの複雑な要素もあるので、
後ほどこのブログでも改めて記したいと思う。
いずれにしても脱行政依存の考えの下、
個人の幸福という観点を踏まえて考えていきたいものだ。
さて。
脱行政依存の話だが、
各種の現場の最前線にいる人たちは、
このことを、すでに理解して余りある。
しかし。
私は住民の代表機関、
と言われる議会という場に席を置いている。
その内部にいる立場からみて、
議会全体としては、
この大転換の方向性を踏まえているとは言い難い。
いまだ行政への依存度の高い
「要求型」議会の姿が垣間見える。
解決方法を示さない過度な批判もその裏返しである。
行政への依存心が高く、
自ら考えている基準に達していないので、
批判のための批判に走るのだ。
私は…
住民の行政への依存度を極力減らし、
行政は、行政の強みで役割を果たすとともに、
住民は、自分たちですべきこと、自分たちでやれること、
については自分たちで責任を持って
引き受けていく姿勢が求められている、と考える。
今後必要なのは、
「大きな政府」でもなければ「小さな政府」でもない。
「適切な規模の政府」である。
時に、必要に応じて行政に任せ、
時に、自分たちでできる状況ならば、
自分たちで引き受け、行政は手を引く。
民主主義の回路をより充実させ、
常に政治に血を通わせて
行政の在り方を人間的にコントロールしていくことが理想だ。
特に政治に関わる我々は肝に銘じなければならない。