• 「猫の手貸します」

■8月12日
午前、ミュンヘン市の都市計画について、元職員から話を聞く。ミュンヘンは、第2次大戦で中心部が80%、全体でも40%が焼けた。がれきの山ができた。話し合いの末、外壁は残ったので、新規の建設ではなく、それを活かした建設が進められる。この古い町並みは、オリンピックを経過しても維持され、移民(「異なる文化的背景を持つ市民」という)が約30%に上る現在でも、ミュンヘンの個性・特性は一貫して変えない姿勢を現在まで続けている。世界的にも有名な、中心部の歩道整備。車を進入できないよう、歩道を拡大する。これにより、マリエン広場周辺に広大な歩道ができ、そこを商店街が挟み込む構造となった。当初、商店は反対していたが、一端導入してみると、売り上げが伸びたことから支持に回ったという。歴史的建築物や教会等が存在し、イベントも積極的に行われることから、大変活気があり、成功した事例となっている。ナチス時代のゲットーの経験から、市内に様々な所属層が混在できるような住宅の性格に関するルールもある。特に「生活の質」を最も重視してまちづくりを進めてきたという点は、傾聴に値する話だった。再開発事業の失敗事例を見学に行く。東のはずれに位置するエリアだが、確かに人手は少なく閑散とした状況。それぞれの住宅、職場をエリアごとに区分してしまったことなどの問題点が指摘された。午後、オリンピック記念公園に向かう。ミュンヘン一高い場所であるタワーからの眺望は圧巻、茶色の屋根の統一感と緑の帯に目を奪われる。その後、午後から「ミニ・ミュンヘン」視察。子どもの遊び場でありながら、一つのまちの再現であり、ミュンヘン市の小型版を子どもたちが自主的に運営するというもの。警察官や銀行員などプロの大人がy子でサポートし、子どもたちが自主的に本格的に就労するなどしてまちを運営する、というもの。銀行だけではなく、大使館や大学もある。職安もあり、ここには子どもたちが列をなしていた。度肝を抜かれたのは、次の話を主催者のマチェックさんから聞いた時だった。「今日は不正選挙が発覚して再選挙が行なわれる日なんです」。つまり、子ども同士で行われる市長選挙で、内部通貨であるミミュを票と引き換えに配布し、一端は市長に当選したものの、それが発覚して市長の座を追われたという。その15歳の少年は、このミニミュンヘンからも追放されたという。選挙違反までが起きる。この本格的な取り組み。マシェックさんたちの30年の試みは、決して平坦ではなかったが、高い使命感で乗り越えてきたようだ。参加者一同が高い関心を喚起された。2年に一回の開催。偶然にも今年その年だったので訪問したのだが、想像以上に収穫があった。
■8月13日
ダッハウ収容所を訪問。ナチスにより運営された戦争責任の象徴である。展示物はドイツ語と英語のみであり、すべてとは言わないまでも、展示といくばくかの英単語で想像をめぐらせ、どんな経緯で、どんな事実があったのか、などを理解することができた。もっとも印象に残ったのは、「April 29、1945」の表示の写真。皆の顔は開放に満ちている。戦争が終了し、米軍が収容所に迎えに行った際に撮られたものだ。この施設を訪問し終わった後、自問する。ナチスやヒトラーは、最初からあのような独裁的姿勢だったのではない。日増しに独裁色、非人道色を強めて行った。小さかったものが、どんどん大きくなった。ここで教訓とされ事の一つには、きれいな言葉を疑ってかかる、ということだろう。ナチスが第一次対戦で疲弊したドイツの国民から熱狂的支持を受けたのは、虐げられた人々にとって、すとんと落ちたに違いない。しかしその先に歴史的な非人道行為が待ち受け、自らにも大きな影響を被ろうとは、想像だにしていなかったのではないか。政治に携わる者が、先を見る洞察力を持たねばならないし、そうした政治家を生み出す、国民も深い思考が不可欠だ。これがドイツの戦争責任の展示から考えさせられた結論だった。それにしても、ドイツは、自国の歴史に向き合っている。もちろん「ナチスだけを悪者にして」という議論があることは承知しているももの、やはりネガティブな歴史事実を率直に、それも場所を保存し、展示物により積極的に示している。日本もこうした大人の国として姿勢が欲しいものだ。
■8月14日
日本時間で午後に時間通り到着。約10日間にわたる行程も無事終了した。南ドイツの景観や、そのコンセプトに強い印象を与えられた機会となった。