• 「猫の手貸します」

被災地に足を踏み入れた私が、
今できることは事実をお伝えすることだ。
以下、私が見たものをそのままお伝えしたい。
11日の夕方。
自宅に戻り、
テレビでの被災状況を食い入るように見つめていた。
と、その時。
大学院の先輩にあたる自治体議員から電話が入った。
その議員は、危機管理を専門とし、
民間人としても、その分野の実績のある方だ。
防災関係のNPO法人の役員や
防災新聞の編集委員を務めるなど専門的立場にある。
同じ大学院でニューオリンズの被災状況を視察するなど、
様々な場所でご一緒させていただいている。
その先輩議員からの電話。
「被災地に行くから、一緒に行きませんか」
といったものであった。
調査と救助のボランティアを行なうという。
もちろん現地の専門家の行動を阻害しないよう、
最大限配慮するという性格のものである。
同行する条件は「今すぐに来るなら」であった。
なかなかつながらない電話が一度でつながったのも、
何かの意味があるのだろう。
私は即時に決断し、防災服に着替えて、
ある程度の防寒対策をし、
迎えてくれた車に飛び乗った。
その議員と、その議員のインターンの大学生、
そして私の3人で被災地に入ったのは、
次の日、12日の午前10時ごろだった。
その移動の間。
道路の陥没や、家の倒壊、コンクリート壁の崩落など、
尋常ではない被害を目の当たりにしてきた。
基幹道路の、ある場所は土砂崩れで迂回せざるをえなかったし、
墓地の墓石は驚くほど倒れ、
家は無残にも倒壊する姿が垣間見えた。
ガソリンスタンドも軒並み長い列をなしていた。
車中で仮眠した福島県郡山駅そばでは、
夜中、何度も大きな余震に目を覚ますこととなった。
当初は発災直後の都市部に入り、
何か貢献できないか、と仙台市に向かった。
しかし、道路の混雑状況やガソリンの確保など
様々な観点からの判断から、
その手前の、津波によリ甚大な被害を受けた、
ある被災地に入ることとなった。
津波に襲われるまでは、
広大な水田地帯の広がっていた場所である。
私たちはこの場に足を踏み入れた。
内陸部から海に向けて、しばらく道路を走ると、
やがて道路の両側に湖のような光景が広がった。
道路も一部冠水し、
道路自体がその湖に飲み込まれてしまうかのようだった。
その光景から、津波は相当内陸部まで及んだこと、
そしていまだ水が引いていないことが分かった。
車は水しぶきを上げながらゆっくりと、そのまま進む。
すると、その先に…
道路が泥まみれとなり、
車は尋常ではない力で転がされて点在し、
大量の木々がなぎ倒され、
住宅の建材が無残にも粉々に分解されて、
住宅街の細い生活道路にまであふれている光景に直面した。
やがて道路は、その大量の木々や
破壊された住宅の一部で寸断された。
本来は、そのまま海に直角に進む道。
両側に広大な水田の状況が広がる風光明美な道のはずだ。
車を止め、海側に歩いて進む。
その変わり果てた光景を目の前に、
寸断された道路の前で通行を止められ、
茫然と立ち尽くす方々がいた。
その方々から話かけられる。
この一面に水の張っているところは水田だったという。
正面の向こうに見える海岸線沿いの木々。
海風を和らげるための防風林だ。
よく見ると、その防風林は、
所々抜けて不揃いとなっている。
目の前に乱雑になぎ倒されている木々が、
その抜けている部分に存在していたこと、
津波の莫大なエネルギーにより根こそぎ抜かれ、
正面のその場所から長距離を移動してきたこと、
が理解できた。
その木々のあたりに集落があって、
まだその地区の方々の安否は不明なのだという。
左向こう側に目を向けると。
これも不自然な光景。
大きな燃料タンクらしきものが、
「斜め」に水面に突き刺さっている。
いかに大きな力だったのか…
そこかしこに、その爪痕が残されていた。
根こそぎ抜かれた防風林、
工場や会社、住宅の中にあった品々が、
散乱し、相まみれて泥まみれとなっていた。
周囲を歩くと。
ある家には、水が1メートルを超える高さまで
来ていたことを示すラインがくっきり残されていた。
避難所の小学校にも津波は及んでいた。
校庭は足を踏み入れるのが
困難なほどの瓦礫の山となっていた。
と、その時。
被災した住民から声がかかる。
急な用事のようだ。
理由もわからず、
小学校校舎横の細い道路の、
瓦礫の山を早足で向かう。
移動しながら同行の議員から、
「ご遺体が見つかったので、
 お運びするので手伝ってほしいそうですよ」
と聞いた。
変わり果てた住宅街の生活道路を進む。
道路を埋め尽くす泥。
なぎ倒された木々。
そしてその合間に生活を思わせる物品。
ハンドバック、靴…
横倒しになっていた仏壇。
思わず手で安定した場所に立てた。
車のクラクションが鳴り続く。
民家の壁に直撃していた。
誰も載っていない、
主のいない車のクラクションを
止めるすべもない。
この音も、災害の光景を助長していた。
これらを乗り越えていく。
人の身長を超えるほどの高さの、
木々や破壊された住宅材でできた
瓦礫の山を乗り越えた時。
そこには人が数人集まっていた。
普段なら、
ここまで歩いて一分も用しなかっただろう。
だいぶ時間をかけたような気がした。
誰かが大声で叫んだ。
「生きている人がいるぞ」
そんな声が上がった。
生存者を確認。
第一発見者の話では、
流されてきた畳の上で四つん這いになり、
ただただ震えていたそうだ。
生存者は中年男性。
震えており、コミュニケーションがうまくいかない。
誰なのか地元の人たちでもわからなかった。
向きを変え、表向きに座らせた。
後に知的障害者であるとわかった。
震えは、寒さと恐怖によるものだろう。
どんな夜を過ごしたのだろうか。
そこにいる方々の話を受けて
その先にある白い車を見る。
この中に遺体が存在していた。
初老の女性のご遺体。
運転席から、席ごと後ろの荷物入れのところまで
押しやられていた。
静かに手を合わせ、ご冥福をお祈りした。
生存者とご遺体のこれからの対応について、
そこにいる住民の方々と我々3人で協議した。
当初は消防団か自衛隊を待つという話も出た。
が、生存者は体も冷えているだろうから、
救出し病院に連れて行った方がいいのではないか、
そんな方向に意見がまとまりかけていた、
そんな時であった。
そんな話をしている時。
もう一人、その現場に初老の男性が現れた。
駆けつけた、と言った方がいいだろう。
「生きてたか!」
生存していた中年男性を見るなり、
その初老の男性は大声を上げる。
生存者の男性も顔が急に崩れ、
泣き声を上げた。
二人は抱き合って泣いた。
親子であった。
亡くなった車の女性は、
生存していた中年男性の母親、
つまり後から来た男性の妻ということが分かった。
夫であるその男性が、
お亡くなりになったご遺体の女性の頭をなで、
「無理しなくてもよかったのになあ…」
とつぶやく。
なぜこの女性が亡くならねばならなかったのか。
その理由を初老の男性は話してくれた。
大きな地震が発生。
息子さんのいた通所施設から、
迎えに来るよう自宅に連絡が入った。
犠牲になった女性が、
車で施設に迎えに行った。
しかし、だから津波に巻き込まれたわけではない。
息子をピックアップし、そのまま避難すれば、
おそらく助かったのだという。
しかし、女性はすぐさま避難しない選択をした。
なぜなら。
海沿いに住む、この女性の母親、
老齢のおばあさんを助けに行ったのだという。
実は、この時すでに、
夫である初老の男性が、
おばあさんを車で避難していた。
緊急事態である。
連絡がうまくつかなかった。
妻である女性は、迫る津波の目前で、
実の母親を必死に探したのだろう。
結果、津波に巻き込まれてしまったのだった。
人の命を大切にしよう、というやさしさにより、
自らの命を奪われてしまった。
何という悲劇的な話なのか。
先ほどこの女性の頭をなでた時に発せられた、
夫の男性の発した言葉の意味が、ここで理解できた。
一筋の光は、
中年男性が奇跡的に生存していたということである。
犠牲となった女性の姿からすれば、
莫大なエネルギーで津波が襲いかかってきている。
生存していた中年男性の命も、奪われておかしくない状況だ。
周囲の私たちは、
「きっと母親が命がけで息子さんを生かしてくれたんだ」
と言葉に出し、夫の男性に声をかけた。
それを信じたかった。
夫の男性は、
何度も「二人ともだめかと思った」とつぶやいていたから、
不幸の中にも、少しの光が注いだのだろう。
夫の男性が、
ご遺体のいたこの場所に来ることができたのは、
犠牲になった女性が車に乗って助けに行った時の姿を、
現地の人が見ていたらしい。
その方々から、
女性をこの近辺で目撃した旨の情報を、
避難先で聞いたことであたりを付けて探しに来たという。
「母親を探していた。津波が迫る中で」
という目撃情報だったという。
避難を促す怒号を振り切って、
実の母親を探す亡くなった女性の
人柄に想いを馳せると、何とも切ない。
想像するに、今回の災害の中でも、
こうした事例は各地域であったのだろう。
語り部の存在しないこうした悲劇も、
たくさん存在するのではないか。
ご冥福をお祈りするしかない。
さて。
目前の生存者と犠牲者にどう対応するか。
その重要な課題が残る。
こうした場面を熟知する同行議員がリーダーシップをとり、
●ご遺体は、場所を確認して公務従事者に伝える
●生存者は、消防団と連携して病院に搬送する
こととした。
私はご遺体に、今一度頭を下げ、
息子さんを責任を持って病院に送り届けることを約束した。
私は、インターン生とともに、
生存者の中年男性の両脇を抱え、
励ましながら、瓦礫の山を越える。
何度も穴にはまり、靴は脱げ、
飛び出す木片にささりながら進む。
注意を凝らす足場には、
生活を思わせる品々が泥まみれで散在している。
「がんばれ、もう少しだ」
男性に声をかけ、背中を叩いて鼓舞する。
いや、男性を励ますようで、
実は、私自身の絶望的な気持ちに対しても、
自らを鼓舞していたのだろう。
ようやく。
瓦礫を縫って車まで戻り、泥だらけのまま、
初老の男性とともに飛び乗る。
生存者は、ちょうど到着したばかりの
消防団の車の乗り搬送されることとなった。
緊急サイレンを、
けたたましく鳴らす赤い車を追走し、
一気に道路を走り病院まで到着した。
入口を駆け抜けた病院内部は、停電していた。
患者は少なくなかったものの、
パニック状態ではなかった。
受付には数名の、マスクをしているが、
私服の女性たちがいた。
おそらく非番の看護師たちであろう。
生存の男性は、すぐに車いすに乗せられる。
同行の議員が、
機転を利かしてすでに把握していた、
発見の状況や場所、初老の男性の連絡先を、
病院の受付の人たちに伝えた。
私たちが遭遇した生存者はまだしも、
命にかかわる状況の方であれば、一刻を争う。
病院側に正確な情報を迅速に伝えることの大切さを学んだ。
被災当事者は、冷静さを失っているかもしれないから、
第3者が、できる限り冷静に寄り添い対応しなければならない。
付き添う者の最低限の役割を改めて実感した。
一通りの情報を伝え、
私たちは一つの役割を終えた。
初老男性の、
奥さんを失った喪失感、絶望感に思いを馳せると辛い。
握手し、無言でその場を後にした。
しかし、まだ、これで終わったわけではない。
私たちには、もう一つの役割が残されている。
ご遺体の場所を関係者に伝えることである。
しかしここに、大きな課題があった。
たらい回しにあってしまったのである。
病院では、消防関係者に伝えてほしいと言われ、
遺体のあった場所や車のナンバーを消防関係者に伝える。
しかし、なかなかうまく伝わらない。
消防の方針は「人命救助優先」である。
その通りであり、
消防関係者に現時点でこの件をお伝えしても、
なかなか難しいのだろうと考えた。
そこで、次に市役所へ。
ところが、市役所の職員の管轄でもない。
遺体安置所に向かうよう要請される。
結局、市役所向かいの遺体安置所にいる警察官に、
住所や発見時の状況をお伝えした。
警察も、今の時点では、
人命救助に最大のエネルギーを注いてでいるとのことで、
遺体の移送は、その次の段階となるとのことだった。
これが大規模災害時の現実である。
これら従事している方々を批判するつもりはない。
彼らはできることを必死に懸命にやっている。
システムの問題として、
ここで留意点を述べたい。
このご遺体の件で記しておきたいのは、
安否関係の情報を一元化し、
情報収集や情報提供をする機関が必要ではないか、
という点だ。
助かった方々が、その後に気にかかるのは、
身近な方々の安否情報である。
災害直後の不安な気持ちに対し、
一刻も早い情報を伝えることは、
公的機関の役割ではないか。
これは今後研究してみたい。
私がもし自然災害において決断する立場にあれば、
やはり、人命救助を最優先とするだろう。
現場従事者たちは、限られた人員で、
本当に献身的に動いている。
犠牲者の方々に申し訳ない気持ちになりつつも、
救える人の命を救うことに、
全力を傾けることは絶対的に正しいことだ。
消防も、市役所の人たちも、警察も、必死で行動している。
おそらく自ら被災したり、
家族や親せきが被害になっている人も少なくないだろう。
全国からも応援に駆け付けている。
こうした時の公務員の奉仕の精神には頭が下がる。
ただ…
何か、ご遺体に面会しただけなのに、
生前のやさしさを感じ、親近感を感じた、
この妻であり母親である女性のことを思うと、
やるせない気持ちが残った。
思うに、これは遺族の気持ちに近いものなのかもしれない。
もう一つ記しておきたい。
どんな現場であれ、私の見る限り、
パニックになったり、混乱している人々はいなかったし、
そんな場面には遭遇しなかった。
市役所でポリタンクを持ち、
給水を待つ人たちも、整然と列を作って待ち続けていた。
お互いに譲り合っている光景がいくつも見受けられた。
もちろん。
今後も含めて長期的に展望すると、
綺麗事だけでは済まないのかもしれないが、
この光景は、誇るべきものと記憶したい。
この点は海外のメディアからも評価されているようだ。
こうした高度に秩序を重んじる
共助の精神に基づく行動とともに、
正確で小まめな情報提供や把握に努める流れが、
こうした冷静な行動をもたらす
背景にあるのではないかと考えた。
さて。
生存者、ご遺体への対応が終了し、
長い滞留をすることで、
現地に返って迷惑をかけてもいけない。
短い時間だったが、
12日の昼過ぎ、私たちは災害現場を後にした。
帰途の途中も、福島県内の通り道では、
道路の陥没など、
この災害の大きな爪痕を何度も目の当たりにした。
精密機器メーカーの、
数階の巨大な社屋が真中から崩れ落ち、
角の柱でかろうじて倒壊を免れていた光景に、
思わず車を止める。
幸いだったのは、
この状況で犠牲者が一人も出なかった、
という点だ。
さらに帰途の途中、
私の携帯には、仲間から、
原発の状況が思わしくないことから、
その近くを通ることを心配する
内容の連絡をいくつも受け取った。
その気持ちに暖かくなった。
自宅に到着したのは、夜中。
同行した2人とは、あまり多くを語らずに、
堅い握手を交わして再会を誓った。
今回の現地調査、救助ボランティア。
発災直後の現場は、
私にいくつもの大切なことを教えてくれた。
また宿題も与えていただいた。
亡くなった方々の声なき声に、
想像をはたらかせたい。
とにかく。
今は、
犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、
一人でも多くの生存者の救出を祈るばかりだ。
そして。
そのあとが正念場となる。
いくつもの街が、壊滅してしまっている。
ここに住んでいた方々の生活。
これからどのように生活を建て直し、
どうやって復興していくのか。
この復興の時こそ、
本当の意味でオール日本という単位で、
私たち自身が、それぞれのできる行動を通じて、
貢献していく段階なのだと思っている。
今、時代の転換期にいる私たち。
この歴史的大地震のもたらした
社会の直面する難題を解決に向けた行動が、
今後の新しい日本の生き方の象徴となることを
念頭に置いて自らも行動していきたい。