• 変わらず ブレず 前へ 未来へ。

「わかば塾」という一風変わった塾がある。
私の地元の名物塾である。
幕末の寺子屋よろしく、
単なる知識を詰め込むのではなく、
勉強する機会を通じて、
子どもたちの人間としての
内面の成長を重んじた塾である。
だから夏も扇風機で過ごすし、
冬はコート着用あり。
つまり寒い中での学習環境が待っている。
時期が来れば、新潟の枯木又という、
山奥にキャンプに行って
自然と戯れる時間を過ごす。
実践型、総合型の知識、体力、忍耐を学ぶ塾である。
私は敬意を表し、
社会人学生と称して関わりをもっている。
そして。
この塾の主宰者である藤本さんもまた、
現代の枠に収まりきらない人である。
もう年齢は60歳を超えているが、
各種の市民運動や、
地元での住民の防災組織を主導するなど、
公のために積極的に汗を流している。
ぶっきらぼうで、べらんめいで、人情の人だ。
私が辞職し、コンビニでアルバイトをしている深夜、
フラッと来て「頑張ってんじゃん」と顔を見ると、
さっと帰っていく。
やり取りは、これだけ。ほんの数分。
でも。
近くにいくらでもコンビニがあるのに、
車を30分も飛ばしてきてくれたのだ。
この言葉に表れていない言葉に、
どれだけ励まされただろうか。
議員となってからも、
こんな藤本さんの塾に時々訪ねては、
藤本さんから様々な示唆をいただいている。
今回訪問したときの話だ。
ふと、藤本さんは言う。
「最近は親たちがねえ…」
こんな話であった。
親たちがクーラーがついているかどうか、といったことで、
子どもを通わせるかどうかを決めている、という。
また、開け放たれた窓から、
部屋に虫が入ってくると、
子どもたちは尋常でない怖がり方をするという。
さらには、知識偏重の学習の流れは
ますます加速している。
ある親は進学塾に通わせるため、
子どもをわかば塾から退会させることとなった。
5年生で、進学塾である。
この話をする時の藤本さんは、
いつもの自信満々の姿とは対称的で、
妙に弱気に見えた。
それはことの深刻さを表していたのだろう。
私も、ある市街地の若手PTA会長の言葉を紹介した。
 近くに遊べる公園もなく不審者情報も頻繁で、
 親は子どもたちを外に出したがらない。
 やがて小学生になると塾通いで、
 運動して転んだり、喧嘩したり、泥まみれになったり、
 という経験を積まないまま、成長していってしまう…
お互いに腕を組んで途方にくれた。
ここで言いたいこと。
確実に子どもたちは、
子どもが本来経験すべき体験の機会を失っている。
小さな失敗やいたい思いをして、
自分で判断したり善悪の区別を学ぶ時間を奪われている。
ということである。
大人による子どもへの干渉が極限まで浸透している。
これによって自分で判断するという習慣が身に付かない。
自分で行動して課題を解決しようという機会を失ってしまう。
下手をすると、進学する大学まで親が付き添うばかりか、
就職先まで親が斡旋するケースも少なくないという。
ところがそのような時間を生きてきた
依存型のヤワなオトナコドモは、
せっかくの就職先を短期間で辞めていくケースが少なくないという。
こうして引きこもりやフリーターが増加していくのである。
親など大人から与えられたレールを言われるがまま歩み、
そこから逸脱すると指摘されから、
そうならないよう大人の顔色をうかがいながら、
子ども時代を過ごす。
生きる意味や自分の感性を磨く時間よりも、
受験勉強はそれほど大切だというのか。
「偏差値の高い高校・大学」に行くことが、
子どもたちの経験すべき時間を削ってまで
重要視するべきことなのだろうか。
すこし大袈裟になったが、
少なくとも、子どもが子どもらしい
生活を送れなくなっていると感じている。
これは私の個人的な感傷ではない。
多くの大人たちが、この点に危機感を感じている。
これはひとえに私たち大人の責任である。
一義的にはその子どもの親が問題だ。
では大人が変わるしかない。
が、親をはじめとして大人を教育することほど難しいことはない。
どうやって大人が気づきを得られるのか、
現実を見ると大変難しい命題である。
骨太のわかば塾のような地域の資産があるにも関わらず、
これを活かさないのは大変残念なことだ。
社会の軌道修正を図りたいものだ。
以上の点については、
道場で子どもたちと接する私にとってのライフワークでもある。
機会を改めて記したい。